【0】
空はすでに夕暮れから夜へと変わりつつあった。
それでも彼は待ち続けていた。
大樹の根元に小さな身体を凭れかけさせ、膝を抱え、迫り来る闇に怯えながら。
……迎えが来ないことは分かっていた。
母親は、彼が近づくたびに青ざめ、無言で身を避けた。
そして心でこう言っていた。
この子さえいなければ
(ああ気味が悪い。……とこの息子だよ。あたしが捨てた古い道具を拾ってきて『これはおばさんの物でしょう?』って……誰にも言ってやしないのに)
(うちの子が、誰にも教えてない家の中のことを、……には全部ばれてるみたいで気持ち悪いって 何? 覗いてるんじゃなかったら何だっていうの)
他人に近寄ると頭の中に聞こえてくる声、見えてくる光景 物心ついた頃にはすでにそうだった。
手でさわったり、あるいは身体が触れたりすればほぼ確実に、相手の声で何かが聞こえ、相手の目線で何かが見えた。
それは今現在の感情か、もしくはかつて体験したことの記憶なのだと後から知った。
息子のそういう能力に気がついた時、母親は笑うことをやめ、父親は
(……、出ていったって? そりゃああんな子供がいればなあ。うちでなくて良かったよ)
(あそこの奥さん、……から来た家の娘だっていうじゃないか。どうりでねえ。あの国って、あんな人間が崇められて暮らしてるんだってさ)
母親は何も知らなかった。
何代も前に、母親の家はかつての祖国を去り、今の国に根を下ろし暮らしてきた。
かつての祖国が、そういう特殊な人間を長年生み出し続けている土地だと聞いてはいたが、関係ないこととしか思っていなかった。母親もその両親も。
今さら、先祖返りのように、昔の土地の縁が降り掛かってこようとは、考えもしなかったのだ。
この子さえいなければやり直せる
どこかで、枝の折れる音がした。
眠りかけていた彼の耳にそれはやけに大きく聞こえ、びくりと身体を震わせる。
目を開けると闇だった。
この深い森の中に、月の光はほとんど届かない。そもそも月が出ているのかどうか、彼に知る術はなかった。
がさがさと草を踏むような音がする 何かが近づいてくるような。耐えきれず彼は立ち上がった。
方向も分からないままに駆け出す。
行く当てがあるはずもなく、ましてや森を抜け出す道も分からない。木々の根や石に足を取られながらも、それでも闇雲に走った。
母親が迎えに来てくれたのかも知れないのに。
そう考える一方で、それはあり得ないことだと彼は知っている。
疲れ果てた顔をした母親は今朝、何も言わずに息子を連れて家を出て、この森へやってきた。
日が高くなるまで歩き続け、先ほどの大樹のところで 彼を置き去りにしたのだ。
『ここにいなさい。絶対に動いたらだめよ』
虚ろな目つきで、しかし強い口調でそう言った母親の心には、もう息子の存在はなかった。
数週間前に出ていった父親のことだけで占められていた。
父親を捜して、二人でやり直すこと。それだけが母親の望みだった……息子は必要ないのだ。
覚束ない足取りで走りながら、彼は泣いていた。
もはや先ほどの場所に戻ろうという気もなかった……そうしたくてもおそらく無理だろうが。
とにかく、この闇から逃れたかった。
安全な場所を見つけ出したかった。
足先に何かが引っかかり、走る勢いのままに彼は前へと倒れた。
転んだのが何度目なのか、とっくに分からなくなっている。幾度も地面に打ちつけたせいで身体中が痛い。限界だった。
起き上がれずに泣き続けているうち、周囲の闇は次第に、痛みと疲労、そして絶望感にさいなまれる彼の思考を麻痺させつつあった。
もはや暗闇が怖いという感覚も消えていた。
……堪え難いほどの眠気が押し寄せてくる。
何がどうなろうと、もうどうでもいい。そんなふうにさえ思い始める。
その直後、何かが動く音がはっきりと聞こえた。遠くない場所から、断続的に、こちらに近づいてくる 生きている何かが立てる音。
能力による鋭敏な感覚が、彼の思考を揺り起こした。途端に眠気が吹き飛び、恐怖心がよみがえる。
近づくにつれ、それが人間であることが分かってきた。木々の間に光が揺らめくのが見えたし、相手の考えていることが言葉で伝わってきたからだ。
子供の泣き声みたいに聞こえたけどな……だがこんな所に、こんな夜中に?
どうやら彼が泣いていたのを聞きつけたらしい。多少の警戒と戸惑いは感じているが、害意は持っていないようだった。
足音がにわかに速くなり、手にした松明とともに相手が姿を現す。剣を腰に帯びた、彼の父親ぐらいの年頃に見える旅装の男が一人。
彼の 五歳程度の子供の姿を目にして、相手は納得と驚きを同時に感じていた。それをそのまま口に出す。
「やっぱり子供か……おい坊主、なんで一人でここにいる? 親とはぐれたのか」
口調は素っ気なく、むしろ無愛想に聞こえるほどだが、相手が本心からこちらを心配しているのが、彼には分かった。
それは、久しく誰からも……両親からも向けられることのなかった感情。
答えない彼に、男はさらに近づいてきた。すぐ前の地面に膝をつき、こちらの顔を覗きこんでくる。
「腹減ってないか?」
その問いかけには思わず頷いてしまった。今朝、連れ出される前に食事して以来、何も食べてはいなかったからだ。
彼の反応の早さに、聞いた当人は口の端を持ち上げる。
「なら付いてこい。大したもんじゃないが食うものが向こうに置いてあるから。ほら」
立ち上がった男が差し出した手をつかむことを、彼はしばし躊躇する。
両親や村の人々の顔 彼が手を伸ばして触れようとした時に見せた、嫌悪の表情を反射的に思い出したのだ。
けれど、この相手は彼の能力を知らないのだし、彼に対する気遣いに裏がないことも伝わってくる。
ともかく、何が見えようと聞こえようと、口に出してはいけない。
その判断ができず、他意なく喋ったりした結果が今の自分の状況だと、幼い頭でも彼は認識していた。
ならば、黙っていれば知られることもないはずだと結論づける。
おそるおそる伸ばした彼の小さな手を、相手は掌にすっぽり収め、痛くない程度に握りしめた。
その温かく大きな手に触っていてもなお、彼に見えるもの聞こえるものは、純粋な同情に起因するものばかりだった。
同時に、子供をこの森に連れてくるなんて何を考えていたんだと、彼の親に対し怒ってもいた。
他には何も 余計なものは見えも聞こえもしない。そのことがようやく、彼を少し安心させた。
それから十九年後。
【1】
大陸の南東に位置する、アレイザス王国。
かつての大国が分裂して興った国の最北端、大陸を二分する山脈の麓近く 他の町や村からは距離を置いた位置に、その小さな集落はある。
それは村とも言えないほど小規模なもので、家屋は二十ほど。いずれも土壁に藁葺き、三部屋程度のささやかな造りである。
それらが建つ一帯を半ば取り囲むように畑が耕され、野菜等の作物が育てられている。
そして畑を通り抜けた先、少し山を分け入った奥には、広場と言って差し支えない程度に開けた一帯がある。
元々は今ほどに広くない空間だった所を、住み着いた者たちが時間をかけて切り開き、現在の広場を作り出した。
日の傾きかけた今の時間、そこには十人近い若者が集まっていた。大半は十代後半から二十歳前後の男たちで、疲れきった様子で座り込んでいる。
ようやく今日の、彼らにとっての日課が終わったところであった。
指導役は二十代半ばの青年が二人。そのうちの一人が解散を告げたが、すぐに立ち上がろうとしたのは半数ほどで、残りはへたり込んだままでいる。
その光景を見回し、もう一人 薄い金髪の青年は、無言でその場を離れた。
片割れの同僚が、まだ動けない面々に何か言っているのを聞きながら、彼は集落に戻る山道を下り始める。
道を半ばほど進んだところで、同僚 仲間うちでは最も古くから知る相手、ラグニードが追いついてきた。
振り返って見ると、その後ろからはまだ誰も来ない様子である。
ラグニードもそれを承知しているようで、傍らまで近寄ってきてすぐに「どう思った?」と聞いてくる。一応は用心して、小声であるが。
先ほどの日課 訓練の結果についてだ。
「半々ってとこか、今までの様子では」
「……いや、一対二だな」
との返答に、ラグニードは「そうか?」と首を傾げた。
「まあ、未だに最後の合図で立ち上がれないのは言うまでもないとして。他に『一』に入れられないとおまえが思うのって誰」
「黒髪の二人」
「っていうと……ああ」
レムニスとナージン。従兄弟同士と言うだけあって、雰囲気のよく似た二人である。
筋は悪くないし度胸もありそうだというのが大方の意見だったが、
「 何か引っかかったのか、アディ」
そこまで話した時には集落の手前まで来ていた。
立ち止まり、山道からも集落の方向からも人が来ないのを再確認しつつ、彼 アディはさらに声を潜める。
「あいつらは嘘をついてる」
「 そうなのか?」
低めた声に含まれるものを察して、ラグニードがさらに近寄り、尋ねた。アディは頷いたが、
「後で 団長のところでな」
それ以上は口にせず、再び集落へと向かって歩を進め始めた。心得た様子で同僚もついてくる。
これから、今日の訓練の報告のため、集団の長がいる家に行かなければならない。
【 → 以下『宵闇の光』本編へ続く】