第1話『波のうた』
◇
――海と空が、窓から一緒に見える。
そんな家に住むのが夢だった。
◇
「こら、夏実!」
「――げっ、姉ちゃん」
声の時点でわかっていたけど、振り返った先にいたのはやっぱり春香姉ちゃんだった。気づかれないように家を出てきたつもりなのに、どうしてわかったのだろう。
「『げっ』じゃない。あんた今日も宿題ほったからしでしょ」
「いいじゃん、だってまだ7月だよ」
「そんなこと言って、去年の休み、最後の3日間で受験生のあたしにまで手伝わせて徹夜したの、誰だったっけ?」
「……今年はやらない。約束する」
姉ちゃんは呆れたように鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ、頼まれたって手伝わないわよ。だからさっさと帰ってさっさと宿題する」
「今日は見逃してよ。もう約束しちゃってるから」
言いながら、手にした捕虫網を振って見せる。今日はクラスの連中が集まっての虫捕り勝負で、1位は他の皆から1週間アイスをおごってもらうことになっているのだった。
「だったら、あたしが友達に頼んで帰らせてもらうから。ついてくわよ」
「……ええ〜、それはカンベンしてよ。ねぇ、お姉ちゃん」
「甘えてもダメ。母さんに絶対連れて帰ってこいって言われ――ってこら、ちょっと!」
「ごめん、ほんとに今日だけ!」
「待ちな……夏実、前!」
「え、――うわっ」
すぐ前を通り過ぎかけた一軒家、そこの門から出てきた人とまともにぶつかってしまった。勢いで道に尻餅をついてしまい、ひっくり返りかける。姉ちゃんが慌てて駆け寄ってきて、
「何やってんのよもう――すみません、大丈夫ですか?」
当然ではあるけど、気遣いはぶつかった相手に向けられた。ひょろりとした感じの、20代後半ぐらいの男の人は、よろめいた拍子に落としたらしいスケッチブックを拾いながら答えた。
「……ああ、何ともない、よ」
なぜか、どことなくぎこちない返事だった。変だなとは少しだけ思ったけど、相手が怒ってはいない様子だったので安心して、すぐに忘れてしまった。そして気になることを聞いた。
「お兄さん、ここに住んでるの?」
町外れの高台にあるこの家は、長いこと空き家だったはず。少なくとも、仲間うちでは誰も今まで、人が住んでいるのを見たことも聞いたこともないと思う。
一瞬きょとんとしたが、相手はすぐにうなずいた。
「越してきたばかりなんだ。よろしくね」
にっこり笑って、「じゃあ」と男の人は何も持っていない方の手を振った。姉ちゃんにもすれ違いながら手を振り、まっすぐ歩いていく。
スケッチブックを持っているということは、絵を描きに行くのだろうか。あっちの方向には海岸があるから、海を描くのかも知れない。
男の人をじーっと、妙に長く見送っていた姉ちゃんの顔を見て「あれ?」と思った。
「なにポーッとしてんの」
「――別に」
そっけない言い方を裏切るように、顔がちょっと赤い。珍しいものを見た気分で、急に面白くなってきた。
「へえぇ、ひょっとしてああいう人がタイプ?」
確かに、わりとカッコよかった。笑った顔が優しそうで、実際、転んだところを手を引いて起こしてくれたのだから、いい人なんだろうと思う。
からかう口調に、姉ちゃんはますます顔を赤くした。我慢しようとしても笑いがおさえられない。
「もしかして一目惚れ?」
調子に乗ってそんなことを口にしたものだから、
「――そんなことよりほら、さっさと友達との待ち合わせ場所を教えなさい。断ってきてあげるから」
急に笑顔になった姉ちゃんに、機嫌良く言われた。……表情は笑っているけど目が怖い。
姉ちゃんに腕をつかまれる直前に思いきり後ずさりして、再び全速力で駆け出した。
◇
――ここの海は、波の音がきれい。
まるで、歌ってるみたいに聞こえる。
◇
ようやく解放されて外に飛び出すと、強い日差しが目にしみた。ここ何日か、昼間はまともに外へ出してもらえなかったせいもあると思う。
まばたきを何度かして目を慣らしてから、家の前の道を走り始める。急ぐ用事も、それどころか約束も予定もないけど、自由な気分を思いきり味わいたかったから、何も考えずに町の中を走り回った。
そうして走っているうちに、いつの間にか海岸の近くまで来ていた。堤防に沿っていくと、下の砂浜に誰かいるのが見えた。
少し距離があるのではっきりとはわからないけど、何かに腰かけて、絵でも描いているように見える。そう考えた瞬間、何日か前に会った人のことを思い出した。
砂浜に下りる階段がある位置まで堤防の上を進んで、石段を駆け下りる。走る足を止めずに近づいていくと、足音に気づいたのか、あと10メートルほどの間隔になったところで、唐突にその人が振り向いた。
……やっぱりこの間、高台の家の前で会った男の人だ。
【 → 以下『海色の町 総集編』第1話『波のうた』本編へ続く】