〈序〉
わたしは走っていた。
数メートル前を駆けていく人を追って。
ただひたすら走っていた。
相手も必死だった。
夜、明かりのほとんど無い道で、闇が深いにも関わらず、何故かわたしは相手を見失うことなく、それどころかまるで猫にでもなったかのように、追う後ろ姿がはっきりと見える。足をもつれさせ、よろめきながらも、足を止めようとは決してしない、女の姿が。
相手がこちらを振り返った。
恐怖に歪んだ女の顔。
その表情がさらに大きく歪められる。
?
不意に、わたしの中に疑問符が浮かんだ。
何をそんなに怯えているのだろう。
わからない。
いや。
それよりも。なぜ、わたしは。
(ナゼワタシハ、彼女ヲ追イカケテイルノダロウ)
わからない 何ひとつ。
どうして?
わたしはただ、当たり前のことをしているだけなのに。
ザッ…………
何かが地面に擦れる音がした。
うごめく白い服の影。
どうやら女が、ついに耐えきれず転んでしまったらしい。
わたしはゆっくりとそちらへ近づいた。
女が再びわたしの方を向く。
ひっ、という声を、かすかに聞いた。
「あ……わ、あわ、わ」
汗とも涙ともつかない液体が、ぐしゃぐしゃに濡れた女の頬をつたう。
それが服の上に落ち、染みを作っていくのにも気づかないほど、彼女は怯え、震えている。
どうして?
どうしてそんなに怯えるの。
きわめて自然な気持ちで、わたしは右手に持っていた物を両手でつかみ直す。
振り上げた瞬間、女の目が、最も恐ろしいものに直面したかのように見開かれた。
「ひいっ!」
すでに、後ずさる力も残っていないようだった。ただ首を力無く、横に振るばかり。
その怯えが最高潮に達した瞬間。
わたしはつかんでいた物を、彼女目がけて、思いきり振り下ろした。
何か、鋭いものが、やわらかなものに食い込むような音の、一瞬後。
目の前の女が悲鳴を上げるのを見た。
それが声へと変化することはついに無く、口を悲鳴の形にぽっかりと開けたまま、女は砂袋が倒れるような音とともに、地面に転がった。
横たわった女の胸から、つかんでいる物を引き抜く。同時に、顔に服に、腕に飛び散る生温かい液体 赤いもの。
あたりに立ちこめる金気の匂い。
手に感じるぬめった感触。
無意識に、手元に ずっとつかんでいる物に目を落とす それは包丁だった。
血に濡れた包丁の鋭いかがやき。
刃からしたたり落ちる血の色。
わずか数センチ先に転がる、すでに物体と化した女。
それらが、目の前でぐるぐると回り出し
そして目が覚めた。
〈一〉
「…………、あやちゃん?」
呼びかける声に、絢子ははっと目を開けた。
すぐそばに祖母の顔があった。心配そうな表情で覗きこんでいる。
「絢ちゃん……大丈夫?」
……ああ、またあの夢を見ていたのか。覚めきっていない頭でぼんやりと考える。
「ずいぶんうなされていたけど……また悪い夢でも見たの?」
「うん、ちょっとね 」
悪い夢。今しがた見ていたものほど、そう呼ぶにふさわしいものはない気がする。
「はい、お水。すごい汗よ」
言われて、喉がカラカラなことに気づく。
祖母が差し出してくれたグラスを受け取り、中の水をごくごくと一気に飲み干した。体中に冷たさが染み渡り、眠っていた体がようやく目覚める感覚を覚える。グラスを祖母の手に返しながら、絢子はため息を一つ、ついた。
「朝ごはん、できてるからね。着替えたらこっちにいらっしゃい」
「はーい」
絢子のその返事を聞いて、祖母は台所へと戻っていく。
部屋の襖が閉められたのを確認してから、絢子はもう一度、先ほどよりもはっきりと、大きなため息をふぅ、と吐き出した。
ひどく、疲れているのが分かる。
まったく眠れた気がしない。顔も首回りも汗でべとつき、パジャマは湿ってよれよれになっている。
首をすぼめ、ベッドの上で膝を抱えて丸くなる。
「…………ふう」
(着替えなきゃ )
本当はシャワーを浴びたいところだが、あまり祖母を待たせるわけにもいかない。後回しにしよう。
顔にまとわりつく髪をかき上げ、絢子はベッドから下りた。
「あ、今日は昼前から出かけるからね」
食後のお茶を飲みながら、絢子は祖母に言った。
「え、どこに行くの?」
「どこって……やだなーおばあちゃん、補習があるって言ったじゃない。休み入る前に」
「補習……ああ、そうだったっけ。おかしいわね、ちゃんと聞いてたのに」
「もうボケちゃったの? 早いよーそれは」
「絢ちゃん、あんたね 」
「じょおだん、だよ」
絢子は笑った。祖母も苦笑いした。
十七回目の、二人の夏。
覚えている限り、絢子はずっと祖母・サトとの二人暮らしだ。他の誰かが一緒だった記憶は無い。加えて祖母からは、両親は絢子が生まれるのと前後して相次いで亡くなった、と聞いている。
絢子は両親を知らずに育った。
周りと明らかに違うその事実は、周囲が思うほどには絢子の中に波紋を投げかけはしなかった。 子供の時から慈しんでくれ、守り育ててくれた人を親と呼ぶとしたら、絢子にとっての「親」はともに暮らしてきた、この母方の祖母だった。
『かわいそうだね』
絢子の境遇を知ると、人はそういうふうに口にする。言葉にはしなくとも、そう言いたげな目で絢子を見る。
けれど絢子自身は、自分を憐れんだことはない。両親という存在が無いことを時折寂しく思うことはあっても、不幸だと思ったりはしなかった。
思い出のかけらすらない肉親に関する気持ちは、案外そんなものではないかと思う。
幸いこれまで、二人で生活する上で大きな困難に遭ったことはなく、倹しくではあるが静かに、おだやかに暮らしてきた。
祖母は秋を迎える頃に六十五になる。定年まで勤めた会社は五年前に辞めたが、今も在宅で仕事を続けている。絢子が「ボケるのは早い」と言うのも当然なくらい、人一倍健康で若々しかった。
だから絢子は不幸ではなかった。充分に幸せだと思っている。……ただひとつのことを除いては。
「でも、残念ね……」
「なにが?」
「今日は、美香ちゃんが来ることになってたのよ」
「えっ、美香おばさんが?」
そんなぁ、と絢子は不満げな声を出した。
「ずいぶん会ってないのにー。なんで言っておいてくれなかったの?」
「つい忘れていたのよ。第一、言っておいたところで、今日は出かけなきゃいけないんでしょう?」
「う……でも補習なんか一日ぐらい休んだっていいもの。友達にノート見せてもらうし」
「何言ってるの。勉強は自分でやらなきゃ意味ないでしょ」
「だってぇ……美香おばさんが来ることなんてめったにないのに。補習なんか明日も明後日もあるのに……」
「近いうちにまた来るように言ってあげるから。今日は何時頃に帰るの?」
「えーっとね 終わるのはたぶん三時半ぐらい」
「なら、急げば美香ちゃんが帰る前に間に合うかも知れないわね。寄り道せずに帰ってらっしゃい」
「そうだね……あ、でも帰りに友達がどっか寄りたがるかも知れないなぁ。そしたらどうしよう」
「それこそ明日でも明後日でも行けるでしょう。毎日会うんだから」
「……そうでした」
墓穴を掘ってしまった。
【 → 以下『夏残り夢』本編へ続く】