ちょっと出てこないか、と彼から電話がかかってきたのは日曜の昼過ぎだった。

「え、今から?」

 昨日の夜から、ずっと雨が降り続いている。朝にしばらくだけ小雨になって、今はまた雨音が聞こえるぐらいの降り方だ。今晩までには止むと予報では言っていたけど、どうなんだろう。

「今すぐでないとダメなの?」

 もう一度聞くと、彼は即座に「そう」と答えた。「急いでるんだ」とも付け加えた。

「わかった」

 彼がそこまで言うのは珍しい。本当に急いでいるんだなと思うと同時に、不安も覚える。

 最寄り駅で待っているという彼に、なるべく早く行くと約束して電話を切る。

 着替えて、バッグと傘を手に外へ出ると、思ったほど肌寒くは感じなかった。この間の雨の日と比べると暖かい気がするぐらいで、羽織っているコートだと少し暑いかも知れないと思ったけど、待たせている彼のことを考えて替えには戻らず、駅へ向かう。

 待ち合わせは改札口のそばと言ったのに、もっと手前、建物の屋根が雨を遮るギリギリの所に彼は立っていた。一見いつもの冷静そうな表情だけど、近くで見るとわずかに落ち着かなげである。

「どうしたの」

 緊張とともに尋ねると、彼は「ん」と唸るような声を出して一度うつむき、すぐ顔を上げた。

「ちょっと、付いてきてほしい所がある」

 それ以上は何も言わず、彼は踵を返して改札に向かって歩き出した。一瞬慌てたが、すぐに後を追う。そういう行動には慣れているけど、時と場合によっては戸惑ってしまう。今がそうだった。

 お互い、口数が多いわけではない。ことに彼は昔から、時としてそっけないほどに無口だ。よくあんな無愛想な人と一緒にいて平気だね、と大学の頃の友達には今でも言われたりする。

 確かに愛想がいい人とは言えない。けれど、愛想が良すぎて薄っぺらく見える人よりは、彼の方がよほど実がある、と思っている。

 付き合い始める前、最初に一緒に食事をした時にはもう、彼の作る沈黙に安らぐ気持ちを感じていた。一緒にいる間の彼の表情は、別に嬉しそうでも楽しそうでもなかったにもかかわらず、ただの顔見知りにまた戻ってしまうのは嫌だな、と思うほどに。

 ……座席に並んで座ってからも、何も話そうとはしない。彼との沈黙は嫌いではない。けれど今は、いつもは感じない息苦しさがある。

 付き合いたいと言ったのは私の方だった。以後、デートの約束も電話も九割以上がこちらから。

 今日みたいに、彼が誘ってくれるケースはとても稀である。この一ヶ月、全く会っていなくて電話も数回だけだったという状況でなければきっと、素直に嬉しかっただろう。

 気を紛らわせようと窓の外を見て、景色が懐かしいものになっていることに、ふと気づく。学生時代は毎日眺めていた家並み。

 職場が逆方向だから、卒業して以降、大学に向かうこの路線に乗る機会はめったにない。ましてや、彼と一緒にこっちへ来るのは本当に久しぶりだ。

 きっかけは、二年生での語学クラスが一緒だったこと。

 ある日予習を忘れて、当てられて答えに詰まっていた私に、たまたま隣に座っていた彼が助け舟を出してくれたのだった。黙って自分のノートを指し示すという形で。

 そのお礼にと、昼ごはんをおごったことが縁になった。

 あれからもう七年も経つんだな、とあらためて思う。

 大学を卒業して就職して、一人暮らしのアパートが二軒目になるだけの月日。

 それだけ経っても、付き合い方はほとんど変わりなかった。会っていても毎晩の電話でも、長話はまずしない。変化は、就職後は忙しくて会えるのが月に何回かになったことぐらいだ。

 それが寂しいとかつまらないとか、少なくとも私は思っていなかった。

 相手に踏み込みすぎるのも、逆にそうされるのも好きではない。彼も同じだろうと、付き合って間もないうちに感じ取っていた。だから今のスタンスは暗黙の了解で、お互いそれに慣れきっている面があった。

 ……雨の街並みが、だんだん大学の最寄り駅周辺に近づいてくる。切符の料金はそのへんで範囲が切れる。そろそろ降りる気なのかな、と考えながら隣の彼の横顔を見た。

 一見、視線に気づいていないのかと思うほどの無表情で、目は窓の方向。

 けれど一瞬、その目がこちらに動いたから、気づいているはずだ。しばらく待ってみたものの、彼は結局振り向きはしなかった。

 付き合い方に不満がないのは本心だけど、不安も全然感じていないと言ったら嘘になる。

 意見の相違は多少あっても、それが大げんかに発展した経験は、これまで一度もない。良くも悪くも、常に一歩か二歩引いた姿勢を保ってきた。

 同時に、将来について具体的に話したこともない。

 二十七にもなれば、友達に既婚者が増えてくる。それを私以上に意識しているのは家族だ。

 彼との交際を隠してはいないから、いつそういう話になるのかと聞かれる回数が年々確実に増えている。ここ一年は口うるさいと感じてしまうほどに。

 いつも「まあ、そのうち」と流してきたけど、それも限界かも知れないなと最近は思う。

 彼がどう考えているのか、いまだに読めないことの一つが結婚についてだった。

 人並みに意識はしていたけど、急ぐ必要は全然感じていなかった。いつかはそうなれば、と考えているうちに二十七になっていた、というのが正直なところだ。

 家族がやいやい言う影響も多少はあって、結婚したい気配が彼からまるで伝わってこないのが、近頃は気になってきていた。だから何度か、私からそれを話題にしようとしたことがある。

 けれど彼は、話を始めるといつも、普段以上に黙り込んでしまう。話を具体的にすることを避けたがっているかのように。

 半年も同じことが続けば、つまり私とはそういう話をしたくないということなのかと、さすがに考えざるを得ない。そう思うとなんだか急に寂しくなって、ここ一ヶ月ほどは会う約束どころか、電話をかけることさえも控えてしまう心境に陥っていた。

 顔を見れば、もしくは声を聞けば、気になって口に出しそうになる。けれど、彼が話したくないことを押し付けて、窮屈な思いをさせたくなかった。

 平たく言えば、しつこくして嫌われたくなかった。

 だからと言って、今のままでいいのだと割り切れたわけでもない。こちらからは電話をほとんどかけない、彼からはこの七年そうだったように、なおさらかかってこない。そんな日々を過ごすうちに、じわじわと胸の内に広がるものがあった。

   もしかしたら潮時が近いのかも知れない、という予感。

 やはり大学の最寄り駅で降りた彼に付いていきながら、その予感が今までで一番、不安とともに大きくなってきているのを認識していた。

 いつもなら、先に立って歩きつつも、ちゃんと後ろを気にしてくれる。なのに今は。雨は止んでいるけど濡れた足元が滑りそうなことも、それどころかこちらの存在さえ忘れているのではと思うほどの早足だった。

 電話の時から感じていた、彼らしくないことの積み重ね。振り向かない後ろ姿に不安があおられる。唐突に涙が出そうになって、止めるためにまばたきを多くしながら目を伏せた。

 直後、突然立ち止まった彼の背中に、まともにぶつかる。

「あ、ごめん」

 反射的に謝りながら顔を上げると、彼がこちらを振り返って、何かを指差していた。その方向に目をやった瞬間、「わあ」と感嘆が声に出る。

 ごく普通の民家の庭にある、大きな枝垂梅の樹。塀があまり高くないから、道からでも広がった枝の部分はほぼ全部見える。偶然見つけて以来、駅まではやや遠回りになるこの道を、花の時期を見計らって通るのが学生時代の楽しみだった。

 初めて彼と見に来た時、ここで告白して、OKをもらった。

 あの時と同じように、梅は今が満開の状態だった。

 昨日からの雨にも負けることなく、きれいな濃いピンク色の花をつけている。

 今朝観た天気予報の、豆知識のコーナーを思い出す。今日は予報士の人が「菜種梅雨」の解説をしていた。菜の花が咲く、ちょうど今ぐらいの時期に降り続く雨は、「催花雨」(※)と呼ばれることもあるらしい。花を催す、つまり咲かせる雨という意味で。(※=「さいかう」)

 菜の花に限らず、いろんな花の咲く時期だから、そんなふうにも言うのだろう。

 雨の直後の今はまだ少し冷たく感じるけど、確実に空気は暖かくなってきているのだ。

「ここでなら、言えると思って」

 そう言うのが聞こえて、思わず勢いよく彼を見上げた。どうして今日ここに連れて来たのか、とまさに考えていたところで、少なからず驚いたから。

 目がまともに合う。一呼吸の間の後、この上なく真剣な表情のまま、静かな声音で彼は言った。「結婚しよう」と。

 不意打ちに何も返せずにいる私に、彼は続けた。

「逃げるつもりはなかった。けど今さらすぎる気がして言い辛くて。考えてたら、ここを思い出した。付き合ってほしいって言われた時のこと」

 顔が赤くなるのを感じた。何年も来なかった場所と、何年も前のことを、彼がそんなふうに思い出した事実に。

「ここに来たら、思いきって言えると思ったんだ。あの時のおまえみたいに」

 先刻よりもさらに大きな驚きで、また言葉に詰まる。

 あの頃は、食事やお茶には一緒によく行く間柄ではあっても、まだ友達以上ではなかった。感情はそれ以上であるのを自覚していたけど、伝えてもしダメになったらと思うと怖くて、口に出せずにいた。

 どうすべきか迷っていた時に、この梅の樹を見つけた。花を見ているうちに、この場所でなら、勇気を持てそうな気がしてきたのだ。

 そのことを、彼に打ち明けたことは一度もないのに、どうして知っているのか。

 ずっと前から、もしかして最初から気づいていたのだろうか。

   そうなのかも知れない。

 周りへの関心が薄そうに見えて、実は結構気にかけている人だから。講義での無言の助け舟しかり、一緒に歩く時の気遣いしかり。

 目を合わせて「長いこと待たせてごめん」と言う彼は、私の不安も、それに気づきつつ結果的には逃げていた自分のことも、ちゃんとわかっている。くだくだしい言い訳をしない分、彼の謝る気持ちは素直に心に届いた。

 そういう人だから、信頼できる。きっとこれから先も。

 確信とともに、晴れやかな思いに満たされた。まるで心の中に花が咲いたような気持ちに、自然と笑顔になるのがわかった。

 不安なことがあったら、次は正直にすぐ口に出してみよう。彼なら、たとえ時間がかかっても、答えを返してくれるはずだから。

 控えめな笑顔を返す彼と、その向こうの色鮮やかな花を見ながら、そんなふうに思った。

 

― 終 ―