初めて見る子供だった。

 その少年に会うのは今日が最初、という意味だけでなく――これまでに会った、他のどんな子供とも違っていたのだ。

 相手を指して「子供」と言っているが、レシー自身もまだ八歳にしかならない。相手もたいして年は変わらないように見える。

同じ年か、一つ違いぐらいだろう。

 そして、とんでもなく綺麗な顔をしていた。

 十歳にならない、しかも少年に対してそう思うのだから、相当なものである。

 少年を連れてきた女の人は、何度か見たことがある。この店に手伝いに通うようになってからの半年ほどで覚えた、常連客の一人。

年頃からすると少年の母親でもおかしくはないのだが、二人は全く似ていなかった。

 三十歳ぐらいの、レシーの母親よりは少し若く見える小柄な女の人は、淡い茶色の髪に濃い緑の目。上品ではあるけれど特別目立つ容貌ではない。

 対して、彼女に手を引かれた少年は黒に近い焦茶の髪で、目の色も黒っぽい。

もっとも、髪や目の色が違う親子はそれほど珍しくない。この場合なら、父親似なのかも知れないからである。

 決定的に違うのは、やはり顔立ちだった。

 何に興味を示すでもない無表情で、女の人に手を握られたまま、店に並べられた商品に目を落としている。

そういう、およそ子供らしい活発さに欠けた雰囲気が、かえって少年の整った容貌を研ぎ澄ましているようで、目が離せなかった。つまり見とれていたのだ。

 視線に気づいたのか、少年が不意に顔を上げ、レシーの方を見た。まともに目が合い、心臓が口から飛び出しそうな心地になる。

 黒っぽく見えた目は、深い青だった。ちょうど、夜になる直前の空の色のような。

 その目がレシーをひたと見据えている。

 ……動くことも、目を逸らすこともできない。

 息苦しささえ感じ始めた時、視線は向こうの方から外された。あっさりと、やはり何の興味も感じなかったかのように。

 ほっとすると同時に、なぜか軽い失望を覚えた。

 「父さん、あれ誰?」

 買い物を終え、帰っていく二人の後ろ姿を見送ってから、レシーは父親に尋ねた。

 「ああ、おまえはこの前は店にいなかったんだったな。メイヴィルの家は知ってるだろう」

 それは知っている。先程の女の人が、その家で働いているらしいことも聞いた。

 店があるのは首都であるこの町、カラゼスの中心からはやや外れた裏通り。

メイヴィルというのは、父親の話によればかなり古い軍人の家だそうで、そういった昔からの家は、この店とは町の中心を挟んだ反対側にある。

 「じゃあ、あいつってそこの子供なわけ」

 「……そうだな」

 答えを、レシーは「ふうん」と軽く受けた。父親が作った不自然な間には気づかずに。

 つまりお坊ちゃんてことか、と思った。

あの女の人は「さあ、戻りましょう。手をお離しにならないでくださいませね」などと少年に話しかけていたところからして、使用人の立場なのだろう。

 あの取り澄ました態度はそのせいかとも考えた。軍人の旧家なら身分的には貴族の範疇に入る。

 けれど、少なくとも服装ではそんなふうに見えなかった。小綺麗にはしていたが、服そのものは自分や近所の友達が着ているものと変わりなかった。

 町の中心にも商店はあるのに、わざわざここまで足を運んでくるのはつまり、あまり暮らしが楽ではないということなのだろう。

この店が、主に裏通り住まいの、日々切り詰めた生活をしている人たち向けに、普通より安く商品を売っていることは最初に聞かされている。

 レシーの家、ホルト家は昔から食料品全般を扱う卸売業をやっていて、大口の顧客も少なくない。

こちらの店は副業ではあるが、だからと言って片手間にやっている様子は両親ともになかった。

 だからこそ、本業の合間を縫って父親が月に数回ここへ顔を出すのだろうし、息子に商売を教えるにあたっても最初に連れてきたのだろう。

普段は母親がこの店を任されているが、今日は一番下の妹が熱を出しているため自宅におり、不在である。

 子供心には、近所の友達と遊んでいる方が当然良かったが、八歳を過ぎたら家業を学ぶのはホルト家の決まりだった。

どうせ連れてこられるのなら、本業の店の方が活気があって面白かっただろうとも思う。四歳上の兄や三歳上の姉は去年からそうしているから、なおさらだ。

 次男だから必ずしも家業を選ばなくてもいい、とは言われる。

だが「将来何になるにせよ商売の勉強をして損はないから」という理由で、今は数日おきにこの店を手伝わされている。

 もっとも、実際の商いは当然ながら親の担当であり、レシーは脇から観察するのが基本だ。

その他、たまに商品を運ぶのや点検を手伝わされたりする。あの二人が来る直前も、昼前に入荷した品物を奥から運びかけているところだった。

 彼らが去って行った方向をまだ見続けていることに気づき、慌てた。商品を放り出したままぼんやりしていたら叱られてしまう。

 だが、そう思いながら振り返った父親は、何か言いたげな表情でレシーを見ながらも、黙っていた。

沈黙が落ち着かず呼びかけると、何度かまばたきをしてから頭を軽く振った。考えていたことを振り払うかのように。

「ほら、そこの箱。早くこっちへ持ってこい。並べるから」

 と少し厳しい声で言った父親はもう普段通りで、だから素直に従った。

 その日は、それで終わった。

 

 二度目は、半月ぐらい後のこと。前と同じ、昼よりも夕方に近い時刻に二人が姿を見せた時、レシーは店の前の道で落書き遊びをしていた。

その日は客が少なくて、暇な間が多かったのだ。

 足音にふと顔を上げると、手を繋いだ彼らが近づいてくるのが見えた。

 (……あ、また来た)と思いながらじっと見ていると、女の人がレシーに気づき、すれ違いざまに微笑みながら会釈した。

反射的に立ち上がり、お辞儀を返す。

 少年は全くこちらを見なかった。

 ……この間も思ったが、一応は貴族身分である家の子供と使用人が連れ立って、しかも食料の買い出しに来るというのは、よくあることなのだろうか。

 貴族の知り合いなどいないから、実際どうなのか分からないが、あまりなさそうな気がする。

付いて来ていることを楽しんでいるようにも見えないし、どうして一緒に来るのだろう。

 母親が出てきて、女の人と挨拶を交わし、何事か話している。何故か小声で、だから内容は聞こえない。短い会話の後、母親がレシーを呼んだ。

 「ちょっとこの人と奥で話してくるから、その子を見ててあげて。何かあったら呼びなさい」

 え、とレシーが反応するより早く、母親と女の人は奥にある小部屋へ入っていってしまった。

 (こいつと、よりによって二人きり?)

 手に石を持ったまま、正直、途方に暮れた。

 生来、人見知りする性格ではない。初対面の相手には大抵、自分から話しかける。

余程気に入らない相手は例外として、誰とでも割合、すぐに親しくなれる。

 けれどこの少年は苦手だった。まだ二回しか会っていない、しかも顔を合わせただけで一言も話していないのに、

そう思ってしまうのが自分でも不思議なのだが。

 こいつは何か違う、という気がするのだった。

 レシー自身や兄妹、その他大人も含めて、知っている人の誰とも違うと――見た目だけではなくて。

 それが何なのかは分からない。分からないのに、強い違和感がある。慣れた店先にいるのに居心地が悪い。

 少年は、こちらに背を向けて店の奥を見つめたまま、無言で佇んでいる。女の人が出てくること以外には関心がない、そんな様子で。

 放っておいても問題なさそうではあった。何刻かかろうとそこを離れずに待っているのではないか、と思わせる大人しさだったからだ。

 ……もし仮に、何日も経ったとしても、こいつならこうやって待っているに違いない。

何故だかそんな連想が浮かび、その瞬間、胸が苦しくなった。

 その思いがレシーの口と喉を動かした。

 「――おい」

 少年は振り向かない。それどころか微動だにしない。思いきって近づいていく。

 「おいってば。聞こえてないのかよ」

 すぐ脇、目の前と言っていいほどに近づいてようやく、相手は顔を目をこちらに向けた。

その途端、一旦はついていた気持ちの勢いが、また引っ込みかける。

 これだけ間近で見ると、少年の顔立ちには綺麗という言葉だけでは足りないものを感じた。その中にある、深い青色の目にも。

 まともに見られると動けなくなってしまう。そんな、理屈でない迫力が確かにあった。

 ……だが同時に、その目には何の抑揚もない。

 敢えて言うなら純粋な疑問。

自身が呼ばれていることが本当に分からなかったのか、あるいは、視界に入ってきたものをただ単に見てみただけなのか。

 これほど無関心な目を向けられたのは初めてだった。胸の中に、訳の分からない苛立ちが広がる。

 「おまえ、名前なんていうの」

 ひどくぶっきらぼうな声での問いを、少年はやはり気にする様子もなく、一つまばたきをする間を置いてから「フィル」と答えた。

 その声も負けず劣らず愛想はなかった。けれど、小さくともはっきりした、澄んだ声だった。

 「じゃあ年は?」

 「六歳」

 「え」

 二歳も違うとは思わなかった。レシーは、年の近い子供たちの中で背が低い方ではない。少なくとも年下の子供には負けていなかった。

 目の前の相手、フィルは、近づいてみて分かったが、目の高さがレシーよりわずかながら上だ。

 (これで二つも年下?)

 なんだか悔しくて、自分でも分かるほどのしかめ面になってしまった。

 その時、フィルの目にわずかな興味の色が浮かんだ。さらに、関心を示すように微かに首を傾げる。

 短い間に固まったり驚いたり顔をしかめたり、と変化の激しいレシーを、変な奴だと思っているのかも知れない。

当人の表情は全然動いていないが、目はそう言いたげに見えた。

 

 【 → 以下『冷たい雨、心の涙』本編へ続く】