【0】

 彼女にとっての春は、二月半ばにやって来た。

「あったよ、二三七八番!」

 と連れの親友が言うより早く、その番号を見つけていた。

 第一志望の大学の、合格発表。

 滑り止めには受かっていたから浪人の心配はなくなっていたが、もしここに受からなければ、自分にとっては三年間の努力が実らなかったも同然。つまらない大学生活になるかも、とも考えていた。

 けれどその不安は完全に消えたわけで――これを春の到来と言わずして、何と言おうか。

「……うん」

 本当は叫びたい心境だが、人目があるから我慢する。けれどこみ上げてくる笑いは抑えられない。

「なに。その気のない返事と顔のギャップ。かえって不気味だよ」

「え、そ、そう?」

「そうだよ。どうせならもっと派手に喜んじゃえばいいのに」

「じゃあ、えーと――やったー!」

「……紗綾(さや)、タイミング外しすぎ」

 呆れたように言う友人に、バンザイの格好のままえへへと笑い返して、さらに呆れた顔をされた。

「……けど、これで大学は別々になっちゃったね。舞とは小学校からずっと一緒だったのに」

「まあね。しょうがないよ、わたしの成績じゃここは無理だったし。紗綾だって似たようなもんだったのに、よく頑張ったよね」

 それは自分でもそう思う。

「うん――目標だったから」

 絶対この大学に入るんだと決めていた。担任や他の先生に無理だと言われても、模試でなかなか合格判定が出なくてもあきらめなかった。

 ここの学生になって、彼に会いに行くんだと。

 そう決めていたから。

 今すっごくいい顔してる、と舞が唐突に言った。さらに「わたしが男だったらたぶん今、紗綾にホレてると思う」などと、やけに実感を込めて言われ、面食らうと同時に真っ赤になってしまう。

「な、なに言ってんのいきなり」

「あはは、冗談に決まってんじゃん。けど、今の紗綾がすっごく可愛いのはホント。自信持っていいと思うよ」

「――うん、ありがと。頑張ってみる」

 親友の力強い励ましに、紗綾は心からの感謝を返した。

 

 

   【1】

 彼にとっては、四月が後半に入った今になっても春ではなかった――正確に言うなら、季節を堪能する余裕のない状況と、心境に陥っていた。

 四月とは新年度の始まりで、学校を相手にする業界にはダイレクトに影響してくる。彼の職場、つまり教科書関係の出版社も然り。

 そして、至る所で異動の頻発する時期でもある。相手先の担当者がことごとく入れ替わるのはもはや例年通りで、前任者との引き継ぎが悪い後任者と話が通じない思いを味わうのにも、いいかげん慣れてきた。慣れるのと苦労でなくなるのとは、また別の話だが。

 さらに今年は、新入社員の教育係が追加された。教職目指していたんだから教えるのは得意だろう、という理由で。要するに、体よく押しつけられたのである。

 おかげで本来の仕事がまるで進まない。連日の残業に加え、土曜、時には日曜も出勤しなければ、最低限の範囲ですら片付かない状態に至っていた。

 当然、明日も出勤するつもりでいる。

「保田(やすだ)、まだ仕事してんの?」

 と声をかけてきたのは、同期入社で経理の土居(どい)。

 時刻は七時まであと十分少々というところ。営業部のフロアには、まだ照明は点いているものの、自分たち以外に人の姿はない。事務の女子社員は帰ったし、営業の面々はほとんど直帰か出張中だ。

 外回り中の何人かも、これぐらいの時間になると直帰に変更する場合が多いから、今日は誰も戻ってこないかも知れないなと孝(たかし)は考える。

 机の上に散乱しているFAX、見積書、その他の書類の量を見やって、土居は顔をしかめた。

「それ、誰かに振り分けきく件ないのか。どう見ても無理あんぞ」

 一人で片付けるのに無理があるのは、自分が一番よくわかっている。しかし、

「説明すんの面倒だし。それで時間取られるぐらいなら、自分でやった方がマシだと思って」

「けどおまえ、ここんとこ休日もまともに休んでないだろ。だいたい新入り五人の教育係を一人でやるなんて無茶なんだよ。なんで断らなかったんだ」

 それは正確ではない。もともとの担当は、一人につき新入社員一人だったからだ。だが他の営業部員が、何かと理由をつけて「あとは保田に教えてもらえ」というふうに運んでしまったため、五人全員を見る結果になったというわけである。

 土居もその次第は知っている。そしてあらためて説明した孝に対して、ため息をついてみせた。

「いや、それはわかってるよ。俺が言いたいのはさ……おまえが、人に遠慮しすぎるってことだよ」

 わかってんのか、と言いたげな目で見られる。

 昔から繰り返されているその言葉は、もはや土居にとっては口癖と言っていい。特にこの数ヶ月はよく聞かされている――彼女と別れた一件以来。

 自覚していないわけではない。だが、自覚するのと改善が可能かどうかはやはり別の問題というか、違う話なのである。

 人の立場で考えると言えば聞こえはいいけど、単に気が弱くて逆らえないだけ。彼女のその言葉には自分自身頷けたから、何も言い返せなかった。

 よく、三年も続いたものだと思う。

 たとえあの時別れずにいたとしても、遠からず同じ結果にはなっていただろう。万一そうならなくても、彼女を幸せにできたかどうかは疑わしい。

 なら、傷の浅いうちに終わらせておけたことは、やはり良かったのだ。

「けど、実際は向こうの都合だろ。おまえは結婚しようと思ってたんじゃないのか」

「そのつもりだった。……だからこそ、だよ」

 確かに直接のきっかけは、彼女に別の男ができたことだった。打ち明けられるまで、全くその事実に気がつかなかった――その少し前に「両親に会わせたい」と孝が言い、彼女がひどくうろたえた時でさえ、想像もしなかったのだ。

 つまりは自分の、一方的な思い込みだった。

 先に好きになったのも告白したのも自分。だが、近づいていけていると思っていた。付き合う月日の中で、お互いへの理解は深まっていると感じていた……だがそう思っていたのは自分だけ。

 ギリギリまで彼女が何も言わなかったのは、言う気になれなかったからだろう。彼女なりに葛藤はしたかも知れない。あるいは、都合の良い相手として利用されていたのかも知れない。もしかしたら最初から。けれどもう、どちらでもよかった。

 自分が結局、彼女にとってはその程度の存在でしかなかった、という事実は変わらないのだから。

「……まあ、おまえがもういいってんならしょうがないけど」と、この話題のたびに締めくくりとして何度も言ってきた言葉を、土居はまた口にする。孝も習慣でまた頷いた。

「で、その仕事全部今日やんないとまずいのか」

「片付けといた方が、明日と週明けが楽には違いないけど。やらないとまずいってほどじゃない」

「なら、今日はもう終わりにしとけよ、明日出るんだったら余計に。なんか食いに行こうぜ」

 帰って作んの面倒だしコンビニ弁当も味気ないだろ、と笑いながら言う。お互い、学生の頃から一人暮らしだった。

「いや、まだこの計算途中なんだよ」

「どれ? あー、これっくらいならやってやるよ。ほら貸せ」

 と、テンキーを操作し始めた土居は、ものの二分ほどで大量の数値入力と関数設定を済ませてしまった。さすが経理と言うべきか。

「これで保存しといていいんだろ。真面目なのは評価してやるけど、気分転換のタイミングはいいかげん計れるようになれって。ほら行くぞ」

 ……外へ出ると、空はさすがにもう暗い。しかし飲食店やコンビニなどが立ち並ぶ大通り、そして地下鉄の駅が近いので、百メートルほど歩いただけで会社周辺とは正反対の、明るさと喧噪の中に出る。

 今日は金曜だから、普段以上に歩道を行く人の数が多い。新人歓迎名目の飲み会は、どこの会社でもまだ下火にはならないようだ。

 いくつも行き交う集団の中には、学生らしき私服の連中もいる。二駅離れたところにある、私立大の学生だろう。四年制のその総合大学は孝の母校でもある。

 この時期だと、クラブやサークルの新入生がそろそろ固定、正式入会する頃だったか。だから飲み会はこの辺りでよくやったっけ、と思い出した。少し懐かしい気分になりながら通りすがりに彼らを見ていると、ふと、こちらに向けられる視線を感じた。

 振り向いた先には、有名居酒屋チェーンの店の前にたむろしている、やはり学生らしき集団。その中の女の子の一人と目が合った……ような気がする。

 そう思った直後に向こうから顔ごと目をそらしてしまったから、定かではない。単にたまたま、孝のいる方向に視線が向いていただけかも知れない。

 第一知らない子だったし、と思ってから考えた。……誰かに似ている気がしなくもない。だが漠然とそう思うだけで、誰なのかは浮かんでこない。

 考えているといきなり、横から腕を引かれた。

「おい、どこまで行く気だよ。入るぞ」

 と土居が言う方向には、馴染みの居酒屋。ここはチェーン店ではない個人経営で、昼だけでなく夜にも定食を出していて人気がある。

 今も混んではいたが、幸い二人分の空きはあり、壁際奥の席へ案内される。注文を済ませ、ビールが来るまでの合間に「ところで」と土居が話を切り出した。

「さっき見てた子、知り合いか?」

「は?」

「『は?』って何だよ。店に入るちょっと前に見てたろ、学生っぽい女の子」

「ああ、……いや、別に知り合いじゃないし」

「けど向こうはずっと見てたみたいだったぞ。だから、お前も気づいてたんだと思って」

「ずっと?」

「……なんだよ、気づいてなかったわけ?」

 結構可愛い子だったじゃないか、と土居が付け加えた言葉は、半分聞いていなかった。また、さっき考えていたことに思考が戻っていたからだ。

 

 【 → 以下『月のひかり』本編へ続く】