第1話:「ココロの距離−鏡の中の迷路−」

 

  書類を入力し終えた時、フロアの時計の針は五時三分を指していた。ふう、と望月里佳(もちづきりか)は息をつく。どうにか定時で退社できそうだ。

 プリントアウトした書類を作成依頼者である課長に提出し、PCの終了処理をしながら机の上を手早く片付ける。その様子を見て、隣席の先輩社員が声をかけてきた。やたら興味ありげに。

 「なんか急いでるのね。予定でもあるの?」

 「ええまあ、友達とちょっと約束が」

 「ふうん、男友達とデート?」

 「違いますよ、女の子ですから」

 厳密には、これから会うのは女の子だけではなかったが、そこまで説明するほど親しい相手でもないし、何より今は面倒だった。

 あらそう、と先輩は興味の薄れた顔で相づちを打ち、視線をそらす。里佳はほっとしながら、貴重品を入れたポーチを手に、フロアの奥へと向かった。

 更衣室には誰もいなかった。

 席への携帯持ち込みは禁止なので、休憩と退社時にはすぐ着信とメールの確認をするのが癖になっている。一番新しいメールを見た途端、ついため息が洩れた。

 差出人は大学からの友人・林祥子(はやしさちこ)で、受信時刻は五時十五分。つまり、こちらの終業時間ジャストに送ってきている。件名が「重要!」などと社内文書みたいで、さらに苦笑いせざるを得ない気分になってくる。読むまでもなく内容がわかるから、なおさらだ。

 開いてみると、やはり予想通り、念押しのメールだった。

 〈忘れてないよね??? 絶対時間厳守で来てよ。逃げるの禁止!!!〉

 わざわざ「?」と「!」を赤い絵文字で、しかも三つずつ並べる強調ぶりである。

 どうしてこんなに必死になるのかなあ、と里佳はつい考える。祥子がそうする理由はわかっている。けれど友人が一生懸命になればなるほど、里佳の方は気持ちが引いてしまうのだ。

 今日、祥子と約束しているのは、合コンだった。

 正確に言えば「約束させられた」のだが。

 社会人になって一年と、もうすぐ一ヶ月。その間に、里佳は何度も合コンに引っぱり出されていた。ほぼ二ヶ月ごと、時には月に一度のペースで。全て祥子の誘いによるものである。

 大学の頃は、ここまで頻繁ではなかった。入っていたサークルが年に一・二回、近くの大学との交流会と称して、催していた時ぐらいである。

 その当時は祥子も、まあはっきり言うなら、今ほどに口やかましくはなかったのだ。しかし就職直後から、合コンの世話を買って出ては「ともかく参加してみなさい」と、お見合いを勧める親戚のおばさんのようなことを言ってくる。

 いや、祥子としてはまさにそんな立場のつもりなのだろう――里佳が、いまだに誰とも付き合っていないから。

 大学一年の時に、当時付き合っていた相手と別れて以来、彼氏と呼べる存在を里佳は持たずにいる。だがわざとそうしてきたわけではない。

 むしろ、交際を申し込んできた相手のうち数人とは、自主的に付き合いを試みてきた。大学時代も、就職してからも。しかしどの人にもピンと来るものを感じず、正式な交際には至らなかった。

 だから、あくまでも結果的に、彼氏がいない身になっているだけなのだ。それはしょうがないと里佳は思うのだが、友人はそうではないらしい。

 祥子は、里佳がまだ「あの時のこと」を引きずっていると考えていて、そう言ってくる時がある。違うと言い続けているのだが、今も百パーセントは信じてくれていなかった。

 完全に忘れたと言うと、それは嘘になるかも知れない。しかしもう四年以上前のことだし、これ以上ないほどに決着はついている。

 それも含めた詳細は、祥子もすでに知っている。祥子とは同じサークルに入って以来の付き合いで、相手もサークルの同期だったから。

 けれど、詳細を知っているからこそなおさら、里佳が引きずっていないはずがないと考えているらしい。確かに一時は揉めたりもしたが、お互い納得の上で別れたのであり、後腐れは一切ないと、里佳は今も確信している。

 だから、友人の気遣いはありがたく感じても、面倒に思う時がなくはない。特に最近はそうだった。

 前の合コンで申し込んできた人物に、断った後もかなりしつこく付きまとわれた経験も大きい。それまでにも強引な人はいたが、そいつは完全にストーカーだった。祥子が合コンの主催者との立ち会いのもと、話し合う段取りをつけてくれなければ、警察に行っていただろう。

 いつも以上に祥子の気合いが入っているのは、そんなことがあったせいでもあると思う。

 『ごめんね、あんなのが混ざるようなところに連れてって』と、片がついた後に祥子はずいぶん謝っていた。

 『別に、さっちゃんのせいじゃないでしょ』

 『ううん、あたしも一緒にチェックするべきだったのよ。次は万全を期した集まりにするから』と言った友人が一ヶ月以上前から、企画から人選まで全部采配したのが、今日のコンパなのである。

 九割方、里佳一人のための計画だとわかっているだけに、断るわけにもいかなかった。

 ……けれど。今日が終わったら祥子にはっきり言おうと思う。しばらく合コンはいいよ、と。

「そんな消極的じゃだめだって」とか、今までにも聞かされたことをまた言われるに違いないけど、気を休めたいだけだと言い通せば納得はしてもらえるだろう。先日の件で疲れたのは確かだから、必ずしも嘘の理由ではないし。

 着替えて時計を確認すると、五時三十四分。約束は六時。合コン自体は七時前に現地集合だが、里佳は祥子と駅で落ち合って一緒に向かう段取りになっている。会社の最寄り駅が同じなのだ。

 慌てなくても間に合いはするものの、五分前には着かなければと少し焦る。普段の待ち合わせの習慣がそうだから、こんな時でもやはり、守るべきことは守っておきたい。

 カバンを肩にかけながらロッカーの扉を閉め、早足で更衣室を出た。

 

 「よし、ちゃんと時間通りに来たね。はい、これ」

 と、先に来ていた祥子から渡されたのはA4用紙二枚。何となしに目を通しかけて、思わず「え?」と声に出してしまう。

 「……これって」

 「今日参加する人。写真は携帯で撮ったからちょっと荒いけど」

 数えてみると六人分、名前と生年月日、出身大学や趣味といった項目が表になっていた。確かに鮮明とは言えないものの、一人一人の顔写真もある。

 「わざわざ作ったの……ていうか、ほんとに全員に会ってチェックしてきたの?」

 表の一番下の欄を読みながら、里佳はあっけに取られた気分で聞く。祥子による「誰々はこんな人」といったコメントまで付いていたのだ。

 「うん、向こうの幹事に聞いたことも多少は入ってるけど、基本的にはあたしの印象。みんな真面目で誠実そうだから、その点は安心していいと思う」

 と祥子は言い切る。友人の人物観察眼が信頼できるのは、長い付き合いで里佳も知っている。が。

 「気合い、入れすぎじゃない?」

 つい言ってしまうと、やはり祥子に聞きとがめられた。「何言ってんの」と返される。

 「これぐらい普通よ、最近は変なのも増えてるんだから。実際、前はあんなのが混じってたわけだし」

 「まあ、それはそうだけど」

 「それに、コンパの場だと雰囲気もあるし、たいてい普段以上に愛想良くするから、ほんとの人柄ってわかりにくいでしょ。事前情報はあるに越したことないの」

 力強く宣言される。そして付け加えた。

 「あ、そうだ。他の人にはそこまで細かいのは渡してないから、見せないように気をつけてね。それは里佳専用バージョンだから」

「……うん、わかった」

 頷きつつも、苦笑いというか、困惑を覚えずにはいられない。

 完全にお見合いのノリだなあ、と思った。祥子が時折入ってしまう「完璧主義モード」にはある程度慣れているつもりなのだが、場合が場合だけに、やはりちょっと引いてしまう思いもある。

 一覧表を眺めつつも、文章や写真はあまり気を入れて見てはいなかった。コンパ終了後にうまく断りを切り出せるかなと、着くまではそればかり考えていた。

 会場は、アジア創作料理の店。名前は何度か聞いたことがあるが、里佳は来るのは初めてである。

 集合時間の十分前には参加者全員がそろった。今までの集まりでは一人や二人は遅れて来るのが普通だったから、珍しい。仕事との都合がたまたま合っただけかも知れないが、祥子の満足げな様子を見ていたら、彼女の采配も影響している気がしてきた。さぞかしいろいろ注文をつけられたのだろうなと、緊張した顔の男性陣の幹事に少し同情する。

 店の一番奥、パーティションで区切られて半分個室になったスペースが予約席だった。テーブルを囲むソファ型の席に全員が座り、幹事の二人が最初に自己紹介をする。

 聞いた話と一覧表によると、女の子は里佳を除いて祥子の同僚とその友人、男性陣は全員、有名な食品メーカーの社員らしい。だからと言って興味が湧くわけでもないから、それ以外の情報は目を通してすぐに忘れてしまった。

 場は参加者の自己紹介に進行していたが、それも右から左に聞き流している。男性陣の後が女の子の番で、自分はその最初だからと、かろうじて人数を数えてはいたけれど。

 四人が話し終え、残る男性は一人。次の次だなと自動的に思った時、聞こえた声に里佳は初めて反応し、顔を振り向けた。

 今しゃべっているのはテーブルの対角線上、里佳から一番遠い位置に座っている人物。大きくはないがよく通る声、滑舌の良い話し方。

 ……当たり前だが、外見は全然違う。だが、思わず振り向いてしまったほどに、その声としゃべり方は似て聞こえたのだ。

 初めて、彼氏として付き合った人に。

 

 【 → 以下『introduction -2-』「ココロの距離−鏡の中の迷路−」本編へ続く】