第1話:「扉」

 

 両親は、わたしが一歳になった直後に離婚した。

 母が家を出ていくとき、父さんは笑って見送ったという。彼女には幸せになってほしいと、本心から思っていたからだそうだ。

 文字通り、自分と娘を捨てていく彼女に対して。

 その話をした時も、父さんはわたしに向かって微笑んでいたのだった。まったく裏のない表情で。

 

 予鈴二分前に校門へ駆け込むと、横から声をかけられた。

「おはよう、ゆーちゃん」

「あ、おはよう」

 挨拶してきたのは中島桜、一年のとき同じクラスになって以来の友達である。生活委員の桜は今週が遅刻者チェックの当番なので、今日も予鈴十分前から校門脇にいたはずだ。

「どうしたの、珍しいね」

「うん、ちょっと寝坊しちゃって」

「ふうん? あ、早く行った方がいいよ。もうすぐ先生来ちゃうし」

 言われるまでもない。生活指導の岡田先生は口うるさいことで全校に有名なのだ。じゃあまた後で、と手を振りながら小走りに昇降口へ入ると同時に、予鈴が鳴った。急いではき替えるべく、スニーカーを脱ぎながら靴箱から上ばきを引っぱり出す。

 その勢いで、上履きに乗っていたものが散らばった。カタン、パサリと軽い音を立てながら、床に敷かれた簀子の上に落ちる。

 落ちたのは封筒が三・四通で、どれも表にはわたしの名前が書いてある。中には何度か見たことのある字もあった。

 拾い集めながら、思わずため息が出てしまう。

 どうするかは後で考えようと思いながら、まとめてカバンの中につっこんだ。……ともかく、担任が来る前に教室に入らなくては。

 何かにつけて受験受験とやかましく言われるのが日常だけど、三年になってよかったと思う機会もたまにはある。例えば今みたいに予鈴ギリギリになった場合。教室が昇降口から目と鼻の先にある校舎の一階だから、走れば一分もかからない。

 ……待てよ、今日はまだ日直じゃなかったよねと一瞬悩む。違う、わたしは明後日だ。二階の職員室に回って日誌を取ってくる必要は、今朝はない。

 ほっとしつつ、今度こそ教室に向かって走り出した。

 

「間に合った?」

 昼休み、桜と中庭のベンチでランチタイム中である。三年からはクラスが分かれてしまったが、時々こうやって一緒に食べることにしている。

「本鈴鳴る前にはなんとか。二年までだったら遅刻になってたかもってタイミングだったけど」

「階段でけっこう時間食うもんねー。……けどさ、ゆーちゃんが遅刻しかけってほんと珍しいよね」

「んー、なんか今朝は起きられなくってね……危うくお弁当も作りそこねるところだったし」

「そんなに夜ふかししたの? それとも、変な夢でも見た?」

  夢……は見たかも。覚えてないけど、そういえば目が覚めたとき、なんか疲れてたかな」

「じゃあ、多分そうなんじゃない? 疲れるような夢だったんなら、忘れて正解な内容だったんだよ、きっと」

「かもね」

 熱心に気遣って言ってくれる桜に何気ない口調で答えつつも、ちょっと良心がうずいた。

 起きた時に疲れてたのは本当だけど、内容を忘れたというのは嘘だから。どんな夢だったか、ほとんどの部分はちゃんと覚えている。

 そこでふと会話が途切れた。後ろめたさがあるせいか、どうということのない沈黙なのに、微妙に居心地が悪い。桜は気にしていないだろうけど。

 その気分をごまかしたくて、傍に置いたカバンの中を探っていると、バランスを崩してベンチから落としてしまった。その拍子に、教科書の間から飛び出してきたものがある。今朝、下駄箱に入っていたあの数通の手紙。

 あ、と声に出さずにつぶやきながら視線を上げると、桜も同じ反応をしていた。目が合う。

「それ、今日入ってた分?」

 との桜の問いに、わたしは頷いた。

 再度、封筒を拾い集めてカバンの中に放り込む。

 その放り込み方が我ながら少々乱暴だったものだから、桜もそう思ったらしく、

「読まないの?」

 ちょっと目を丸くしながら、そう聞いた。

「うん、帰ってからね」

 できれば一通も読まずにすませたいのが本音だけど、そう言うと必ず友達(桜も含めて)には「それじゃ相手がかわいそうだよ」と返される。だから一応は目を通すけど、家に帰ってから開封することにしている。学校でラブレターを読むなんて、自分から噂の種をまくようなものだと思うし、時にはやたら気恥ずかしくなる文面もあって困るからだ。

 そんなことは桜もとっくに知っているのに、いまだに気になるらしい。

「……ゆーちゃんって」

 どことなく複雑な表情で、桜が呟くように言う。

「ほんとに男子に興味ないんだね」

「そういうわけじゃないよ。単に付き合う気にならないだけ」

「けどさ、手紙読んでも全部捨てちゃうんでしょ。返事もめったに書かないし」

それは事実なので、とりあえず返す言葉はない。

「告白されてもその場でみんな断っちゃうし。あんまりゆーちゃんがきっぱりしすぎてるから、男子の一部じゃ『男嫌いの高原』とか言われてるって聞くぐらいだし……」

 桜は口ごもった。その後はちょっと続けにくい、という感じで。

 そんなふうに言われていることは、桜以外からも聞かされているので知っている。ついでに一部の女子の間では、もしかしたらレズなんじゃないかとか噂されているのも。

 桜いわく、わたしが断った男子の一人を好きなナントカさん(名前も聞いたけど覚えていない)が噂の大元らしいが、彼女の周辺以外ではさほど広まっていないようなので、気にしないことにしている。

「別にいいよ、どう言われてても」

「でもさ、ゆーちゃんがものすごく冷たい人みたいに思われてるのって、あたしは悔しいな。美人だし大人っぽい雰囲気あるから、確かに一見とっつきにくい感じはするかも知れないけどさ  だけど本当はそんな子じゃないのに、って言って歩きたくなっちゃう」

 半ば本気で怒っている様子の桜に、

「ありがと。でも、わたしは平気だから」

 なるべく明るく聞こえるよう、けれど感謝はきちんと伝わるように言った。

 桜は、今度は一転して気遣わしげな表情になる。

「ほんとに、まだ誰も付き合ってみようかって思う人いない? あれだけ手紙来てて」

「うん  だってよく知らない人がほとんどだし」

「……一人ぐらい、ピンと来るような人がいてもいいのにね。残念」

 何度となく交わした会話で、桜の台詞も毎回ほぼ変わりない。

 恋愛そのものへの興味が薄すぎるわたしを、桜はしょっちゅう心配している。桜自身は彼氏と二年近く続いていて、今でも仲がいい。だから余計に、わたしにも早くそういう相手ができてほしいと思っているのかも知れない。

  まあ、そのうちいい人が見つかればね」

 これもいつもの答え方だったけど、話題に区切りを付けるためには他に言いようがなかった。

 

 校内の噂その他に関して、わたし自身は本当に気にしていない。正直、当面はどうでもいいと思っているぐらいだった。

 もらう手紙にいちいち返事を書いていたらきりがないし、直接に告白してくる相手に対してはごく常識的な態度で断っているつもりだ。冷たく接しているつもりは全くないけど、それをどう受け取るかは向こうの問題で、そこまでわたしの責任だと勝手に思われたとしても、どうしようもない。

 しかし男嫌いとか冷たいとかの評価が付いているらしいのに、手紙やら呼び出しやらがなくならないのは不思議である。同級生ならまだしも、違うクラスとか別の学年とか、わたしの顔と名前しか知りようもないような相手は、一体わたしの何を見て好きだとか思うのだろう。見当もつかない。

 そういう不可解さも、わたしが恋愛沙汰を避けたいと思う理由のひとつだ。小学生の頃は目立つ男子に憧れたこともあったけど、具体的に行動を起こす気にはならなかった。

 今から考えれば特別に本気ではなかったのだろうし、そこまで気づいてなかった当時から、わたしの中には、恋愛という事柄から一歩も二歩も引く心の動きがあった。

 

 わたしは自分の名前があまり好きではない。

 本音を言うと、嫌いだ。名付けてくれた父さんに悪いと思うから、面と向かってそうは言わないし、感づかれないようにもしているけど。

 少なくとも、好きになることは今後もできそうにない、と思う。

   母の名前「有希」から一字をもらい、美しい女性になるようにとの願いもこめて「有美子」。

 その由来を最初に聞いたとき、両親が何故離婚したのか、おぼろげには知っていた。父さんと、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがそれについて話しているのを、漏れ聞いたことがあったのだ。当時は小学生だったから難しい部分は理解できなかったけど、母の方に重大な理由があったというのはわかった。

 そして数年後、今度は父さんの口からはっきり、離婚の理由について聞くことができた。

 母には結婚前から好きな相手がいたのだった。

 

 【 → 以下『introduction -1-』「扉」本編へ続く】