最初に教えられたのは、奇妙な言葉。

 正確には、その時初めて教わったわけではない。その言葉を、そして言葉の意味するところが何なのか、ロズリーはすでに知っていた。

 

 最初、高い塀に囲まれたその場所を、個人の屋敷とは思わなかった。敷地があまりにも広大だったからだ。

 馬車がゆっくり走っていることを考慮しても、敷地を囲む塀は延々と続いていた。角を曲がって同じほどの時間が経った頃、ようやく門の前に停車  するかと思いきや、そのまま通り過ぎる。

 ロズリーが首を傾げているうちに、馬車は角をもう一つ曲がり、止まった。塀をくり抜き、木の扉をはめ込んだ小さな出入口がある。どうやらここが裏口、使用人が出入りする所らしい。

 ここまで自分を連れてきた男ともども、鳴らした扉に反応した若者に先導されて屋敷に入る。

 引き合わされたのは年輩の男性だった。

 「お嬢様はお身体が弱い」

 何度聞かされたか知れない「注意」が、この屋敷の家令だという人物の口で繰り返される。

 「それゆえ、ご家族とは離れてお暮らしだ。お一人では寂しかろうからと、旦那様と奥様はお相手を務める者を長らく探してこられた。お前は旦那様方に選ばれたのだから、そのことを感謝するように」

 恩着せがましい口調を、ロズリーは冷めた思いで聞いていた。どう感謝しろというのか。その「旦那様方」には今日まで一度も会っていないのに、選ばれたなどと言われても信じられるはずがない。

 はい、と声に出しはしたが少しも有難そうではない返事に、家令はわずかに眉を上げた。だが叱責するほどには怒りも興味も感じなかったのか、付いて来るようにと身振りで促されるにとどまった。ロズリーは同行の男を振り返りはせず、指示に従い家令の後に付いて歩いた。

 母屋を出ると、広い庭があった。樹木や花が整えられた空間の向こうには、木々の群れ。ここが個人の敷地だと知らなければ森だと思いそうなほどに深い。

 近づいて実際に足を踏み入れて、そう感じたのはあながち大げさではないことを知った。よく晴れた初夏の昼間で、郊外とはいえ都の一角、しかもくどいようだが個人の家の敷地内なのに、なぜ薄暗くなるほど緑が深いのだろう。

 国の北部から広がるという、森林地帯と呼ばれる高い山々と深い森の如く、どこまでも緑は広がっているかと思われた。さすがにそれは錯覚で、しばらく歩くと木々は途絶え、小さな建物が姿を現した。

 それは、母屋や庭の壮麗さに比べると、ずいぶん粗末に見えた。ロズリーの目から見ればごく普通の庶民の家と同程度だが、違うのは屋根まで含めて、全てが石造りであるところか。何にせよ、この屋敷に住む人間にとっては、この建物はさぞかしみすぼらしいに違いない。

 扉だけは木製で、その前に立った家令は、目を伏せて何事か呟いた。ロズリーがその様子を見上げていると、家令は顎をしゃくり、同じようにしろと言わんばかりに睨みつけた。そして扉に向き直り、再び口を動かし始める。

 あらかじめ聞かされていた『注意』に含まれていた一文を、ロズリーは暗唱する。小さく声に出しながら、扉に刻まれていた不可思議な文字を追った。

 暗唱を三度繰り返し、ようやく室内に足を踏み入れる。……どこもかしこも、真昼だというのに、周囲の木々のせいでろくに光が入ってこない。そもそも、窓自体が小さい上に少ないのだ。たどり着いたこの部屋もそうだった。

   それでもなお、部屋の一角が明るいように見えたのは、室内にいた人物故にだ。

 自分と同じ歳、十二歳だと聞いていたが、背丈はずっと高い。ひどく細い身体つきだから、なおさら長身に見えるのかもしれない。

「お嬢様」が、座っていた椅子から立ち上がり、こちらを見ていた。

 天井近くの小さな窓から差し込むわずかな陽光だけでも、その人の髪が、蜜のように豊かな金色であることはわかった。波打つ髪が白く小さな顔を、そして造作を際だたせ輝かせるように縁取っている。

 こんなにも綺麗な人間がいるのかと、しばし呆けながらもロズリーは思った。いろんな人間に会ってきたが、これほど美しい人は見たことがなかった。……同じ年齢以前に、同じ人間とさえ思えない。

 「お嬢様、今日からこの娘が、こちらに参ります」

 家令がそう告げるのが聞こえて、我に返る。同時に少なからぬ違和感も覚えた。

 「御用は全て、この娘にお申し付け下さいますように。この娘に何かありました時については、御存知の通りに」

 「分かりました」

 短く応じたお嬢様の声は、大きくはなかったがよく通る、澄んだ響きを持っていた。だが声の美しさに感嘆するよりも、先程の違和感の正体に気づいて呆気に取られる思いの方が強かった。

 言葉は丁寧だが、全く感情がこもっていない。仕事であることを差し引いてもあまりにも冷たい  それどころか、何の思いも感じ取れなかった。先程ロズリーに向けた言葉の端々にあった、恩着せがましさや嘲りさえ。

 用件は済んだとばかりに、家令は素早く背を向けて出ていく。挨拶の言葉ひとつ無く。頭は下げていたが、明らかに形だけであった。

 戸惑いとともに見送った後には、沈黙が重くのしかかる。はっと振り向くと、お嬢様は最初から浮かべている微笑みを消すことなく、ロズリーを見つめていた。

 「……あの、ええと」

 「よろしくお願いします」

 微笑みの美しさにまたしばし見とれたロズリーが言葉に詰まっている間に、お嬢様が口を開いた。

 「で、いいのかしら」

 これから仕える人の丁寧なお辞儀に慌てた直後、一転してきょとんとした様子のお嬢様に、ロズリーは首を傾げた。

 「えっ?」

 「初めて挨拶する時って、こういうふうに言えばよかったのかしら。教わったのがずいぶん前だから、ちゃんと覚えていなくて」

 口元に指を当てて、本気で考え込んでいるらしいお嬢様の姿は可愛らしいが、何とも言えない気分も感じさせた。哀れむような気持ちすら覚える。

 二人といないような綺麗な人だけど、頭の働きが少し鈍いのかもしれない。そんなふうに思った。

   でなければ、どうしてこんな場所に、一人で住まわされているのか。見る限り、確かに健康的だとはお世辞にも言えない。だがこんな、昼間でさえ薄暗く風通しも良くない部屋にずっといるのだとしたら、誰だって血色が良くなるはずがない。

 そう思った途端、家令が閉めていった部屋の扉を開けていた。家中を駆け回り、扉だけでなく、手の届く位置にある窓も全部開け放す。

 部屋に戻ったロズリーを、お嬢様は不思議そうな目で見つめた。

 「換気は、時々しなくちゃ駄目ですよ。空気が悪いと体に良くありません」

 「まあ、ありがとう。ところで換気ってなに?」

 「……窓や扉を開けて、家の中と外の空気を入れ換えることです。今まで誰もする人、いなかったんですか」

 「そうね……言われてみれば、乳母がしてくれていた気はするけれど。ずいぶん前のことだから」

 「  その人は、今は」

 「そこで倒れてしまって、それきり」

 開け放した扉の所を示されて、少なからずぎくりとする。その乳母は、おそらく何かの病で倒れて、意識を取り戻すことなく亡くなったのだろう。

 お嬢様は、それを目の当たりにしたのだろうか。

 その時、窓から差し込む光に影がよぎり、お嬢様が心持ち窓の方を振り向いた。光を受けて輝く二つの瞳は、鮮やかな青  今日の空の色のような。だがこの部屋からは、空はろくに見えない。

 「外へ、出ませんか」

 考えるより先にそう言っていた。かすかな驚きを青い目に浮かべて、お嬢様は再びこちらを見る。

 「とてもいい天気ですから。今日は、あまり暑くもありませんし」

 本当に身体が弱いのだとしても、寝たきりではないのだから、しばらく外に出るぐらい構わないだろう。だが、思いの外強く、お嬢様は首を振った。

 「それは駄目なの。私は、ここから出てはいけないのよ。知っているでしょう?」

 このお嬢様が示すとは思わなかった強い感情に、ロズリーは言葉をなくす。

 木の扉に刻まれていたあの文字、あの文章  出入りする時には必ず三度唱えるようにと、しつこいほど『注意』で聞かされた一文と同じものだった。

 遙か昔、この国の大元が築かれた当初、使われていたという古代文字。

 国の最初の王の時代、その娘であり「神の分身」と呼ばれる巫女でもあった王女が、国を揺るがした悪しき存在を封じる際に使ったという封印の文章。

   全ての悪しきものをここに永遠に封ずる。

 いったい、このお嬢様が何をしたというのか。

 単純に身体の弱い娘を、こんなふうに扱うとは信じ難い。少しばかり物を考えることが不得手なのだとしても、あんな文章を用いてまで「封印」するだなんて……普通の両親、人の親のすることとは思えなかった。

 「ねえ、そうだわ。私、あなたをどう呼べばいいのかしら」

 先程の感情を忘れたかのように、朗らかにお嬢様が尋ねてきた。

 「あ、ロズリーといいます。そう呼んで下さい」

 答えながら、そういえば家令はロズリーの名前さえ言わなかったと思い出す。いや、それ以前に。

 「お嬢様、お名前はなんというのですか?」

 何気なく出した問いに、お嬢様は目を丸くした。

 沈黙が流れる。

 その間、お嬢様は首を傾げたまま、瞬きをするばかりで答えない。

 

 

 【 → 以下『儚く灯る未来』本編へ続く】